ソラネコの何か(仮)

徒然電脳妄想ブログ

宇宙戦艦ヤマトという夢

なんちゃってイラストレーター、彷徨えるトランスジェンダー、ソラネコです、こんにちわ、初めての人は初めまして…。

もしも仮に―。ある人が「こんな夢を見た」と言って『宇宙戦艦ヤマト』の物語を記した夢日記を持ってきてボクに読ませたとしたら、ボクの心は何を連想するのか。ヤマトというペルソナを引き剥がしてみると、そこには何が見えるのか―以下の論述はそのような前提で書かれている。従って、いわゆる単なるアニオタの人には、あまり面白くないというか難解な部分があると思われるので、その点は注意されたい。

この物語は『宇宙戦艦ヤマト2199』として、出渕裕監督によりカバーされているが、今回は第一作目である、いわゆる『元祖ヤマト』『ヤマト無印版』を中心に話を進めることにする。だが、もちろん『2199』との比較を行なっている部分もある。

ボクは、いわゆるナニナニ学の専門家ではないので、その筋の人が読んだら穴だらけのトンデモ分析(解釈)ということになるのかもしれないが、まあ、その点については珍説として笑って耐え忍んで頂こう。

それでは、異空間に向かって発進するとしよう。

宇宙戦艦ヤマトの物語とは何なのか

宇宙戦艦ヤマトの物語について簡単に説明するなら、イスカンダルに放射能除去装置を頂きに行く=天竺にありがたいお経を頂きに行く=要するに西遊記のパロディーである。

しかし、マンガ家である松本零士氏が企画に参加した時から、『ヤマトの物語』は単なるパロディーの域を超えていくことになる。

企画会議の土壇場で参加した松本氏は、『宇宙戦艦ヤマト』に『(太平洋戦争で撃沈された)戦艦大和』のイメージを重ねた=九州沖に眠る戦艦大和と乗組員たちの『目的を達成できなかった故の喪失感』を『宇宙戦艦ヤマトの物語』の中で、地球を救うという形で『彼ら』の喪失感を晴らしてやろうと考えた=という事であるが、このことからも明らかなように『宇宙戦艦ヤマトの物語』には神話的な性格が備わっている。

松本氏が「これでは戦艦大和に見えんではないか」と言ったかどうかは定かではないが、結局のところ、ヤマトは松本氏とスタジオぬえの手によって、最終的に、よく知られた「あの形」になった。それ以前からスタッフの間には『宇宙戦艦ヤマトの物語』=『戦艦大和の物語』という認識はあったのかもしれないが、少なくとも松本氏によって、よりそれが強められたということは言えるだろう。

中国には『死者があの世で必要とするものを紙に書いて燃やすだけで、「それ」は煙と一緒に死者のもとに達する』という考え方が古くからあるし、他の民族にも似たような考え方がある。

無意識の世界では、想像することが創造することになるのであり、松本氏の考えた『宇宙戦艦ヤマトの物語』=『戦艦大和の物語』という図式はユング心理学の考え方を援用すると、実に理に適っているようにボクには思える。

実際のところ、死んだらどうなるのか、ボクには判らない。しかし、最近は医学の発達により以前なら死んでいたはずの人たちが奇跡的に助かる例がいくつかある。そのような人たちの話を総合すると、この世の喜怒哀楽など感情的なものは『向こう側』では重要な意味を持たず、肉体から開放されると真っ先に脱落してしまい、自分の人生さえも、まるで他人ごとのようになってしまうらしい。そうであるにも関わらず、残る喪失感とは何だろう。これについて作家の小林勝氏の手記から採り上げてみよう。

小林氏は生死に関わるほどの大手術の後に、一時的に死を体験したらしい。

「ただ一つだけ、最後まで残っていた感情がある。それはなんとも言えない無念な思いであった。(中略)自分がこうしてパタッと消えるにしても、やはりつづいていくであろう人間の歴史の上に、たとえどんなかすかな爪あととしてでも刻むことなくして飛び去らなくてはならない無念さだった。これは、意外だった。自分なりに精いっぱい生きてきたつもりだったのに最後にそんなものが残るとは夢にも思わなかった」

人類の歴史に貢献できなかった―これこそが、死してなお残る喪失感の正体だ。

歴史に基づいた戦艦大和の映画等がいくつかあるが、戦艦大和が目的を達成できないことに変わりはなく、我々がいくらそれを見たところで喪失感が大きくなるばかりだ。それでは「彼ら」は救われない。

だが、『宇宙戦艦ヤマト』は違う。かつての戦艦大和と違って、死出の旅に赴くのではない。日本を救う、そして究極的には歌詞にもあるように地球を救うという使命を帯びた旅であり、達成すれば本当の意味で英雄になれる旅である。戦艦大和と、その乗組員への鎮魂の物語として、これ以上のものがあるだろうか。

前置きとしてはこのくらいでいいだろう。

―というわけで、See You Next Talk!