ソラネコの何か(仮)

徒然電脳妄想ブログ

イスカンダルと絶対的正義

なんちゃってイラストレーター、彷徨えるトランスジェンダー、ソラネコです、こんにちわ、初めての人は初めまして…。

前回に続いて宇宙戦艦ヤマトの世界に突入することにする。以下の論述は、宇宙戦艦ヤマトという夢から続いているものである。

 

七色星団の戦いでドメルを破ったヤマトは大マゼランへと旅を続けるが、そのヤマトに対して遂にデスラー総統自らが動く。ヤマトを強力な磁力でガミラス星の内部へと引きずり込み、濃硫酸の海に沈めようというのである。ヤマトは為す術もなくガミラスに引きこまれ、頭上からは雨のようにミサイルが降り注ぎ、足元には濃硫酸の海が広がり、戦いは熾烈を極める。しかし、沖田の意見によりヤマトは海中に潜り、火山脈を波動砲で撃つ。火山脈の爆発は周囲に誘爆を引き起こす。だが、デスラーはそれでも戦いをやめようとせず、全てのミサイルをヤマトに向けて発射させる。ヤマトも使用可能な全ての砲門を開いて応戦する…。

主砲操作室にいた進が意識を取り戻し、甲板に出てみると、辺りは静寂に包まれていた。ガミラスの大地に生きる物の気配は感じられなかった。そして進はガミラスが―ひとつの文明が死んだのだということを知ったのである。確かにヤマトはガミラスに勝った。ヤマトに乗艦して間もない頃の彼なら、この勝利に対して間違いなく歓声をあげることだろう。だが師匠である沖田の薫陶を受けてきた(と思われる)今の進にとって、地球人に殺されたガミラス文明という光景は勝利と呼ぶには、あまりにも苦いものであり、両手を上げて喜ぶ気分にはなれなかった。

 

デスラーガミラス民族の地球移住のために遊星爆弾による攻撃を開始したというのが『元祖ヤマト』の物語の発端である。デスラーは言っている「ガミラス人にも生き延びる権利はある」と。地球人は同族同士で戦争をするような愚劣で野蛮な種族であり、彼らを駆逐したほうが宇宙のためにもなるだろう。これがガミラス側の論理であり正義なのである。

一方、イスカンダルに行き、自分たちが生き延びるに値する存在だとスターシャに証明してみせることが、ヤマトの論理であり正義である。

この2つの論理は対立していて相容れることができない。しかもどちらが間違ってるとも言い切れないのである。双方の主張ともそれぞれの立場で見れば正しいのだが、相手の立場から見ると正義とは呼べない。現実の世界にもよくあることだが。この種の、立場によって見方が逆転してしまう正義はあくまでも相対的な正義であり、ガミラスと地球の価値観を繋ぐことができるようなものとは成り得ない。

ボクは今、相対的な正義という言葉を使った。では絶対的な正義、要するに相手の正義が自分にとっても正義である、というようなものはあるのか。もちろん、それはある。残念ながら『元祖宇宙戦艦ヤマト』では、ガミラスに勝った直後の「負けた者はどうなる?負けた者には幸せになる権利はないというのか?(中略)ガミラスの人たちは地球に移住したがっていた。この星はいずれにしろお終いだったんだ。地球の人も、ガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった」という進の言葉と直後のレーザーライフルを投げ捨てる行為の中に暗喩として示されているだけなので、ここでは『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界に絶対的正義を探してみよう。

 

『2199』の世界ではガミラスから艦隊がやって来て、地球人に対して自分たちの陣列に加わるよう要請するところから物語が始まる。但し、第1話の時点ではそのことは伏せられていて、沖田や徳川など一部を除いて、ほとんどの登場人物がその事実を知らない。さて、『2199』のガミラスはどのような旗を掲げて地球にやってきたのか。彼らが掲げていた旗は、恐らくイスカンダル主義である。2199年の黒船はガミラスの使者である以上にイスカンダル主義の大使であり、スターシャの名代でもあったのだ。

彼らと地球艦隊の間にどんな会話が交わされたのか、具体的な描写はない。しかしそもそも彼らがイスカンダルの名に傷をつけ、スターシャの顔に泥を塗るようなことをするはずはない。それはユリーシャを前にしたディッツ父娘その他の面々の態度を見ても判る。これは単にイスカンダルの王族を尊敬しているというレベルのものではない。イエス・キリストを前にしたキリスト教徒の態度に近いものがある。ガミラス人はイスカンダルの王族を宗教指導者のような感覚で見ているのだ。つまり『元祖宇宙戦艦ヤマト』では充分に描かれなかった絶対的正義が『2199』の世界では、ひとつの宗教哲学として存在している。そして、イスカンダル主義、絶対的正義を最初に地球にもたらそうとしたのは、イスカンダルではなくガミラスだった。

『2199』の世界では最初からガミラスが地球に対してイスカンダル主義の名の下に接してくる。だが、地球人はガミラスの真意が理解できず、彼らの好意を裏切り一方的に戦端を開いてしまう。ガミラスの接触態度は友好的且つイスカンダル主義に法った正々堂々としたものだったと思われる。だからこそヤマトで「ガミラスが先に攻撃を仕掛けてきた」という話を聞いた時、イスカンダル主義の信奉者である(と思われる)メルダ・ディッツは地球が戦端を開いたという自らの情報に対し「我が家系の名誉にかけて嘘偽りはない」と応えるのである。

薄闇の向こうから何者かが近づいてきた時、我々にはそれがどんな存在であるのか、光をもたらすものなのか、闇をもたらすものなのか、事前に知ることはできない。「そいつ」の正体を知るためには「そいつ」と付き合う必要がある。しかし未知のものの衝撃に耐えるには、かなりの心的エネルギーを必要とする。だが、その時の地球人には内惑星戦争での痛手もあって、ガミラスという衝撃に耐えられるだけの心的エネルギーが足りなかった。

イスカンダル主義の具体的な内容については考える必要はないだろう。絶対的正義を象徴する言葉として存在すれば、それでいいのだから。

 

さて、そこで問題となるのが、何故、そして何のためにガミラスは地球にやってきたのかということだ。むしろ逆説的に何のために地球はガミラスの黒船に訪問されなければならなかったのか―と言ったほうがいいかもしれない。

『2199』の世界では、ガミラスの黒船がやってくる以前、地球と火星の間で戦争が行われたという背景がある。説明はないが『元祖宇宙戦艦ヤマト』の世界でも同じようなことが起こった可能性があると考えても不自然なことではないだろう。この戦争によって息子を奪われた母が、父が、恋人を奪われた男が、女が、兄を奪われた妹が、弟が何人いたことだろう。古今東西を問わず戦争によって涙を飲まされることになるのは、いつだって名も無き民衆たちだ。息子を奪われた母の悲しみは特に深い。つまり、地球はガミラスの攻撃を受けたから荒廃したのではない。それ以前から荒廃していて、救済と癒しを必要としていたのだ。この場面は、お伽噺における「王が病に倒れたため国土が荒廃した」という場面になぞらえることができる。もちろん戦争を回避することができなかった国連というのが病に倒れた王、疲弊した王に対応する。

仏典では、仏を求める民衆の想いがピークに達した時、民衆の想いに応じて仏が現れるとされている。そして、『ヤマトの世界』でも、民衆の嘆きはスターシャという女神を呼び覚ますことになった。ガミラスの黒船は、象徴的には地球の名も無き民衆の嘆きの声に応えようとしたスターシャの命令により地球(太陽系)を訪問したのである。つまり、すべての原因は地球側にあった。

 

ガミラスが地球を攻撃しなければ、ヤマトの物語はなかったことになるということは既に述べたが、ヤマトが旅立たなかったら、何がどうなるのかは明らかだろう。傷ついた魂は癒されないし、いずれ戦火が再び燃えることになったに違いない。

 

―というわけで、See You Next Talk!