ソラネコの何か(仮)

徒然電脳妄想ブログ

古代守は何故イスカンダルに残ったか

なんちゃってイラストレーター、彷徨えるトランスジェンダー、ソラネコです、こんにちわ、初めての人は初めまして…。

前回に続いて宇宙戦艦ヤマトの世界に突入することにする。以下の論述は、宇宙戦艦ヤマトという夢から続いているものである。

 

さて、我々の物語に戻ることにしよう。進は自分たちの過ちに気付き、レーザーライフルを投げ捨てる。ヤマト(に象徴される現代の日本)がしなければならなかったのは、ナチスドイツに加担したことと、大日本帝国として自ら太平洋戦争を起こしてしまったことに対する贖罪だ。ヤマトはガミラスに勝利したことにより、ガミラスが被っていたナチスドイツ、大日本帝国という2つの仮面を打ち破った。贖罪は果たされたのだ。一方、「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった」という進の言葉はガミラスが密かに被っていた「日本人から見た悪いアメリカ」という仮面が、少なくとも『元祖ヤマトの世界』では消滅したことを意味している。

 

ヤマトは勝った。ガミラスナチスドイツ、大日本帝国軍、日本人から見た悪いアメリカという3つの仮面を被っていることを述べたが、それでは、そもそもヤマトは、沖田は、そして進は、いったい何と戦っていたのか。―というわけで、今まで、何度も提示しておきながら、そのままにしておいた謎の解明にとりかかるとしよう。ガミラスという仮面の奥にあるもの、デスラーという仮面を被っていたのは、本当は誰だったのか。

これに答えるためには、宇宙戦艦ヤマトが本当は何なのかという問いから始める必要がある。誤解を恐れずに言うならば、ヤマトは現代に蘇った天鳥船(あめのとりふね)こと鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)である。正確に言うならヤマトは天鳥船に代表される船の形をした神の元型イメージの一つであるというのがボクの見解だ。

宇宙戦艦ヤマトが単なる戦艦ではないことを象徴する出来事として、次元断層に閉じ込められた時の件をあげることができる。スターシャから通信が入るや、誰も操作していないにも関わらず、ヤマトの立体羅針盤が通常空間への出口を指し示すのである。

参考までに、後続作品からもいくつか例を上げてみよう。

さらば宇宙戦艦ヤマト』の中で地球艦隊の全滅を目の当たりにして打ちひしがれる大人たちに向かって「ねえ、ヤマトはどこ?ヤマトが来てくれたら、あんな奴らやっつけてくれるよね?」と、一人の少年が問いかける場面があるが、ヤマトをウルトラマンと入れ替えても、まったく違和感がない。ヤマトはここで擬人化されている。それも単なる擬人化ではなく、ヤマトそのものがヒーロー視されているのだ。

ヤマトをヒーロー視しているのは、この少年だけではない。地球防衛軍司令長官ですら「ヤマトさえいてくれたら」と言っている。リアルに考えるなら、地球艦隊を全滅させた敵に戦艦一隻で勝てるはずがないのだが、長官はヤマトなら絶対に勝つことを恐らく確信している。

ヤマトが天鳥船であるならば、その向かう先はどこか。『宇宙戦艦ヤマトの物語』は日本人が作ったものだ―ならば、そこに日本人の神話が映しだされていると考えるのは自然な流れだろう。スターシャについては、以前にもヤマト・ワールドの女神であると述べた。宇宙を統べる存在が女神として表現されているのは、日本神話において高天原を統べる神々の長が、天照大御神という女神であることと同じである。要するにイスカンダルは高天原であってスターシャは天照大御神その人なのだ。まして宇宙戦艦ヤマトは旧戦艦大和と乗組員の鎮魂のために旅立つ天鳥船である。その目的地が高天原以外であるはずがない。戦前の悪行を反省し試練を乗り越え、高天原へ行き天照大御神にお目通りし日本を救う聖なる宝物を戴く―これが宇宙戦艦ヤマトの物語に隠された裏の物語である。

一方、極楽浄土のようなイスカンダルとは対照的な雰囲気を持つガミラスは根之堅洲国であり、その支配者は建速須佐之男。アマテラスの弟だ。スサノオには高天原に登って乱暴な行為をしたというエピソードもあるが、基本的にはマザコンであり姉であるアマテラスに対しても頭が上がらない。そして我々の物語の総統閣下も、どうやらスターシャには頭が上がらないようである。デスラースサノオと違ってイスカンダルに攻め入ることさえできない。

結局のところ、宇宙戦艦ヤマトの物語の中で語られている地球に対する仕打ちというのも、荒ぶる神であるスサノオデスラーの名のもとに、日本がナチスドイツに加担したこと、大日本帝国として自ら太平洋戦争を起こしてしまったことに対する罰として行っていたことだったのだ。一見すると悪であるデスラーに魅力を感じるのは、その向こう側に神であるスサノオが存在するからなのである。

アマテラスとスサノオの背後には更に偉大な父神である伊邪那岐が存在する。同様にスターシャにも父親がいるはずだが、物語の開始時には既に故人となっていて、実際には、ヤマト・ワールドの中においては、偉大なる父神の存在は、スターシャの「自分の力でイスカンダルまで放射能除去装置を取りに来い」というメッセージの中に埋没してしまっている。これを表面的に解釈するなら、スターシャは亡き父親の意思を代行しているということになる。究極的にはイスカンダルまでの旅路は、スターシャの中に存在する父神がヤマトに課した試練であるという事になるだろう。

 

さて、ヤマトがイスカンダルに到着すると、そこには進の兄である守が待っていた。捕虜としてガミラスに運ばれる途中で輸送艦が難破し、スターシャに救出され、結局のところ二人は愛しあうことになる。進から地球への移住を勧められたスターシャは、それを断るわけだが、これは彼女がヤマト・ワールドの女神であり、自分の宮殿を留守にすることができないことを意味している。

ヤマトが地球への帰路につく直前、守は進の静止を振り切りスターシャのもとに走る。守が何故イスカンダルに残ったのかといえば、スターシャを愛しているからだ。女神の愛人となったからには、人間と肩を組むことはできず、地球に帰ることは許されないということになるわけだが、次に彼のイスカンダル残留を別な面から見てみよう。

西崎氏は宇宙のことを「海」と表現している。水は無意識を象徴するものであり、海の意味は三途の川と同じであって彼岸と此岸を隔てる境界である。お伽話では海の向こうにあるのは、巨人の国だったり、小人の国だったり、妖精の国だったりする。要するにイスカンダルは彼岸であって「人間の世界」ではない。

守は自分の意志でイスカンダルに来たわけではない。自己犠牲により沖田を救い、結果的にはヤマトの旅を成功に導くきっかけを作り、その功績により彼はイスカンダル、つまり高天原へと迎え入れられた。言葉を変えれば、彼は死者なのである。死者である守はそもそも地球=人間の世界へ帰ることはできないのだ。*1

 

さて、スターシャから放射能除去装置をバラバラのパーツの状態で受け取ったヤマトは、地球への帰路につくことになるわけだが、物語はこれで終わったわけではない。最後の試練が待っている。

 

―というわけで、See You Next Talk!

*1:作り手がボクと同じように解釈したということではないだろうが、『2199』では守が死者として登場する。

イスカンダルと絶対的正義

なんちゃってイラストレーター、彷徨えるトランスジェンダー、ソラネコです、こんにちわ、初めての人は初めまして…。

前回に続いて宇宙戦艦ヤマトの世界に突入することにする。以下の論述は、宇宙戦艦ヤマトという夢から続いているものである。

 

七色星団の戦いでドメルを破ったヤマトは大マゼランへと旅を続けるが、そのヤマトに対して遂にデスラー総統自らが動く。ヤマトを強力な磁力でガミラス星の内部へと引きずり込み、濃硫酸の海に沈めようというのである。ヤマトは為す術もなくガミラスに引きこまれ、頭上からは雨のようにミサイルが降り注ぎ、足元には濃硫酸の海が広がり、戦いは熾烈を極める。しかし、沖田の意見によりヤマトは海中に潜り、火山脈を波動砲で撃つ。火山脈の爆発は周囲に誘爆を引き起こす。だが、デスラーはそれでも戦いをやめようとせず、全てのミサイルをヤマトに向けて発射させる。ヤマトも使用可能な全ての砲門を開いて応戦する…。

主砲操作室にいた進が意識を取り戻し、甲板に出てみると、辺りは静寂に包まれていた。ガミラスの大地に生きる物の気配は感じられなかった。そして進はガミラスが―ひとつの文明が死んだのだということを知ったのである。確かにヤマトはガミラスに勝った。ヤマトに乗艦して間もない頃の彼なら、この勝利に対して間違いなく歓声をあげることだろう。だが師匠である沖田の薫陶を受けてきた(と思われる)今の進にとって、地球人に殺されたガミラス文明という光景は勝利と呼ぶには、あまりにも苦いものであり、両手を上げて喜ぶ気分にはなれなかった。

 

デスラーガミラス民族の地球移住のために遊星爆弾による攻撃を開始したというのが『元祖ヤマト』の物語の発端である。デスラーは言っている「ガミラス人にも生き延びる権利はある」と。地球人は同族同士で戦争をするような愚劣で野蛮な種族であり、彼らを駆逐したほうが宇宙のためにもなるだろう。これがガミラス側の論理であり正義なのである。

一方、イスカンダルに行き、自分たちが生き延びるに値する存在だとスターシャに証明してみせることが、ヤマトの論理であり正義である。

この2つの論理は対立していて相容れることができない。しかもどちらが間違ってるとも言い切れないのである。双方の主張ともそれぞれの立場で見れば正しいのだが、相手の立場から見ると正義とは呼べない。現実の世界にもよくあることだが。この種の、立場によって見方が逆転してしまう正義はあくまでも相対的な正義であり、ガミラスと地球の価値観を繋ぐことができるようなものとは成り得ない。

ボクは今、相対的な正義という言葉を使った。では絶対的な正義、要するに相手の正義が自分にとっても正義である、というようなものはあるのか。もちろん、それはある。残念ながら『元祖宇宙戦艦ヤマト』では、ガミラスに勝った直後の「負けた者はどうなる?負けた者には幸せになる権利はないというのか?(中略)ガミラスの人たちは地球に移住したがっていた。この星はいずれにしろお終いだったんだ。地球の人も、ガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった」という進の言葉と直後のレーザーライフルを投げ捨てる行為の中に暗喩として示されているだけなので、ここでは『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界に絶対的正義を探してみよう。

 

『2199』の世界ではガミラスから艦隊がやって来て、地球人に対して自分たちの陣列に加わるよう要請するところから物語が始まる。但し、第1話の時点ではそのことは伏せられていて、沖田や徳川など一部を除いて、ほとんどの登場人物がその事実を知らない。さて、『2199』のガミラスはどのような旗を掲げて地球にやってきたのか。彼らが掲げていた旗は、恐らくイスカンダル主義である。2199年の黒船はガミラスの使者である以上にイスカンダル主義の大使であり、スターシャの名代でもあったのだ。

彼らと地球艦隊の間にどんな会話が交わされたのか、具体的な描写はない。しかしそもそも彼らがイスカンダルの名に傷をつけ、スターシャの顔に泥を塗るようなことをするはずはない。それはユリーシャを前にしたディッツ父娘その他の面々の態度を見ても判る。これは単にイスカンダルの王族を尊敬しているというレベルのものではない。イエス・キリストを前にしたキリスト教徒の態度に近いものがある。ガミラス人はイスカンダルの王族を宗教指導者のような感覚で見ているのだ。つまり『元祖宇宙戦艦ヤマト』では充分に描かれなかった絶対的正義が『2199』の世界では、ひとつの宗教哲学として存在している。そして、イスカンダル主義、絶対的正義を最初に地球にもたらそうとしたのは、イスカンダルではなくガミラスだった。

『2199』の世界では最初からガミラスが地球に対してイスカンダル主義の名の下に接してくる。だが、地球人はガミラスの真意が理解できず、彼らの好意を裏切り一方的に戦端を開いてしまう。ガミラスの接触態度は友好的且つイスカンダル主義に法った正々堂々としたものだったと思われる。だからこそヤマトで「ガミラスが先に攻撃を仕掛けてきた」という話を聞いた時、イスカンダル主義の信奉者である(と思われる)メルダ・ディッツは地球が戦端を開いたという自らの情報に対し「我が家系の名誉にかけて嘘偽りはない」と応えるのである。

薄闇の向こうから何者かが近づいてきた時、我々にはそれがどんな存在であるのか、光をもたらすものなのか、闇をもたらすものなのか、事前に知ることはできない。「そいつ」の正体を知るためには「そいつ」と付き合う必要がある。しかし未知のものの衝撃に耐えるには、かなりの心的エネルギーを必要とする。だが、その時の地球人には内惑星戦争での痛手もあって、ガミラスという衝撃に耐えられるだけの心的エネルギーが足りなかった。

イスカンダル主義の具体的な内容については考える必要はないだろう。絶対的正義を象徴する言葉として存在すれば、それでいいのだから。

 

さて、そこで問題となるのが、何故、そして何のためにガミラスは地球にやってきたのかということだ。むしろ逆説的に何のために地球はガミラスの黒船に訪問されなければならなかったのか―と言ったほうがいいかもしれない。

『2199』の世界では、ガミラスの黒船がやってくる以前、地球と火星の間で戦争が行われたという背景がある。説明はないが『元祖宇宙戦艦ヤマト』の世界でも同じようなことが起こった可能性があると考えても不自然なことではないだろう。この戦争によって息子を奪われた母が、父が、恋人を奪われた男が、女が、兄を奪われた妹が、弟が何人いたことだろう。古今東西を問わず戦争によって涙を飲まされることになるのは、いつだって名も無き民衆たちだ。息子を奪われた母の悲しみは特に深い。つまり、地球はガミラスの攻撃を受けたから荒廃したのではない。それ以前から荒廃していて、救済と癒しを必要としていたのだ。この場面は、お伽噺における「王が病に倒れたため国土が荒廃した」という場面になぞらえることができる。もちろん戦争を回避することができなかった国連というのが病に倒れた王、疲弊した王に対応する。

仏典では、仏を求める民衆の想いがピークに達した時、民衆の想いに応じて仏が現れるとされている。そして、『ヤマトの世界』でも、民衆の嘆きはスターシャという女神を呼び覚ますことになった。ガミラスの黒船は、象徴的には地球の名も無き民衆の嘆きの声に応えようとしたスターシャの命令により地球(太陽系)を訪問したのである。つまり、すべての原因は地球側にあった。

 

ガミラスが地球を攻撃しなければ、ヤマトの物語はなかったことになるということは既に述べたが、ヤマトが旅立たなかったら、何がどうなるのかは明らかだろう。傷ついた魂は癒されないし、いずれ戦火が再び燃えることになったに違いない。

 

―というわけで、See You Next Talk!

ガミラスとイスカンダル

なんちゃってイラストレーター、彷徨えるトランスジェンダー、ソラネコです、こんにちわ、初めての人は初めまして…。

前回に続いて宇宙戦艦ヤマトの世界に突入することにする。以下の論述は、宇宙戦艦ヤマトという夢から続いているものである。

 

ヤマトのイスカンダルまでの旅には大日本帝国が犯した罪を償うという意味がある。戦争行為の反省と大日本帝国軍のネガティブ思想との戦いということについては既に述べた。だが、それだけではない。大日本帝国が犯した最大の罪、それは多くの罪なきユダヤ人たちを苦しめ死に追いやったヒトラー率いるナチスドイツと同盟を組んだことだ! たとえ日本がユダヤ人の虐殺に直接加担していなかったとしても、責任を免れることはできない。

目の前の悪事を見ながら、それを糾弾せず、見てみぬふりをするのは、自らがその罪を犯しているのと変わらない。まして目の前の悪事を糾弾できる立場と力がありながら、それをしないのでは卑怯者と呼ばれても仕方がない。だとすれば、贖罪の旅に出た宇宙戦艦ヤマトにとって、ヒトラーとナチスドイツこそ戦う相手として相応しいではないか。

西崎氏や松本氏の言い訳に反して、デスラーは無論のこと、ヒス、ドメル、ゲール等、実在するナチスドイツの関係者の名前を捩ったキャラクターが存在するのはガミラスがナチスドイツのアレゴリーになっているからなのである。

 

整理すると、ガミラスはナチスドイツ、大日本帝国軍という、2つの仮面をかぶっている。もちろんナチスドイツが表の仮面で、大日本帝国軍が裏の仮面だ。あるいはガミラス人が大日本帝国軍という仮面を、ガミラス軍がナチスドイツという仮面を被っているという言い方もできるかもしれない。

ロケット技術の研究も、それを応用した武器としての弾道ミサイルも、ジェット戦闘機も、原爆の研究も、ヒトラー率いるドイツ第三帝国が世界に先んじていた。V2ミサイルがロンドンを襲った時、市民には何が起こったのか、全く理解できなかった。ドイツ帝国の軍事技術は、そのくらい進んでいたということだ。ジェット戦闘機の実用化も第三帝国が最初に成し遂げた。もしも第三帝国の優位がもう少し続いていたとしたら原爆も実用化していたかもしれない。

さて、我々の物語の帝国は大小マゼラン星雲を征服し、更に我らが銀河系にまで魔の手を伸ばし、着々と侵略を進めている。彼らの軍事技術は圧倒的で、少なくとも『元祖ヤマト』の世界にはガミラス軍に対抗できる軍隊は、どこの惑星国家のものだろうと登場しない。『2199』でも事情は変わらない。こちらには『さらば宇宙戦艦ヤマト』からのフィードバックと思われるガトランティス軍の宇宙艦隊が出てくるが、これもドメル艦隊に対して、まったく歯が立たない。

もちろん、黄金期のローマ帝国も周囲の国々がかなわないほどの技術大国であり、また軍事大国でもあった。だが、そもそも戦争行為を反省しなければならない現代の日本には、ローマ帝国の悪事に加担したという歴史的事実はなく、彼らと戦わなければならない必然性がない。宇宙戦艦ヤマトが行わなければならない贖罪ということを考えれば、ヤマトが戦う相手はナチスドイツしかありえない。

だが、ガミラスには、もうひとつ、隠されていて表面からは見えない3つ目の仮面がある。それは日本に原爆を落としたアメリカという仮面である。もちろん遊星爆弾が原爆を表している。

 

アメリカ人が憎い、アメリカという国はアメリカ人ごと地上から消滅して欲しいとまで思っている人は多くはないだろう。だがアメリカに対して「原爆投下はやりすぎだった」と公式に謝罪して欲しいと思っている人は少なくないはずだ。

もちろん現代の日本はアメリカの同盟国であり、アメリカと戦わなければならない理由などないように思える。それにアメリカはナチスドイツと戦ったのであり、宇宙戦艦ヤマトにとって、本来であれば手を携えるべき相手のはずである―にも関わらず、何故ガミラスはアメリカという仮面を密かに被っているのか。それは原爆を落とされたことに対する悲しみと憎しみのためである。既に太平洋戦争は終わった。今更アメリカと戦おうなど愚の骨頂だ。そう、頭では確かに解っている。だからといって感情のほうは「はい、そうですか。解りました」とすぐに納得できるものではない。その納得できないという思いが3つ目の仮面に表れているのである。

だが、仮面を被っているのはガミラスだけではない。イスカンダルもまた仮面を被っているのである。軍国主義を一掃し、日本に民主主義と自由をもたらしたアメリカという仮面を。

 

ガミラスとイスカンダルは二連惑星、要するに双子の惑星である。お伽話では双子も含めて二人の人物が主役になるときは、片方が善玉で、もう一方が悪玉、あるいは片方が積極的で、もう一方が消極的、あるいは片方が男で、もう一方が女―というように、対立するものを象徴している。そしてここにあるのは日本人の見たアメリカの「良い面」と「悪い面」だ。

アメリカは日本に原爆を落とし、被曝後遺症という呪いをかけた。そしてその一方で、軍国主義を廃し民主主義と自由を与えてくれた。政府を批判しただけで逮捕されたり、投獄されたり、死刑になったりする国と較べれば、現代の日本に住む我々には、はるかに自由がある。そしてアメリカは様々な文化を伝えてくれた。我々はアメリカに対し、まさしく両極端なアンビバレントな感情を持っている。

 

さて、双子星の仮面について述べたわけだが、イスカンダルとガミラスがアメリカの「良い面」と「悪い面」を象徴しているというのは、あくまでも顕在意識、自我意識が見ているものでしかない。無意識、潜在意識は、それとはまったく違うものを見ている。

イスカンダルがアメリカの「良い面」を象徴しているというのは、ほとんどの人が了解できると思われるが、イスカンダルと対立するガミラスの場合はどうか。単純に「悪いもの」として断定することができるだろうか。ガミラスは日本人にとっての「悪いアメリカ」を象徴している。それは間違いない。だが、それにしてはやけに光に満ちているようにも感じられる。ボクもそうなのだが、ヤマトのファンの中には「デスラー総統万歳!大ガミラスに栄光あれ!」が口癖のようになっている人も少なくないと思われる。何故、我々はデスラー総統に惹かれるのか。何故、ガミラスに魅力を感じるのか。

―というわけで、See You Next Talk!